AIで学ぶ「天理教」

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  • 我慢とは違う?「たんのう」の意味

    我慢とは違う?「たんのう」の意味

    「今日も仕事、疲れたな…」 「なんで自分だけ、こんなに理不尽な目に遭うんだろう」 「人間関係って、どうしてこうも難しいのか」

    毎日を懸命に生きる私たちにとって、悩みやストレスは尽きません。仕事のプレッシャー、将来への不安、うまくいかない人付き合い。そんな壁にぶつかった時、多くの人が「我慢(がまん)」という選択をします。

    「社会人なんだから、これくらい耐えなければ」 「波風を立てないように、自分が我慢すれば丸く収まる」

    そうやって、グッとこらえ、感情に蓋をすること。それが「大人になること」だと教えられてきたかもしれません。

    しかし、その「我慢」、いつまで続くでしょうか。 我慢は、不満や怒りを心の中に無理やり押し込める行為です。一時的には乗り越えられるかもしれませんが、溜め込んだストレスはいつか必ず、心のコップから溢れ出します。燃え尽き症候群(バーンアウト)になったり、人間関係がこじれたり、あるいは心身のバランスを崩してしまったり…。

    もし、我慢するのではなく、辛い出来事そのものを「喜び」に変えてしまう心の持ち方があるとしたら、どうでしょう。

    そんな、一見不可能に思える心の転換を、天理教では「たんのう」という言葉で教えています。

    今日は、この「たんのう」という、我慢とは似て非なる、深く満たされた心のあり方についてご紹介します。

    「我慢」と「たんのう」の決定的な違い

    まず、二つの言葉の違いをはっきりさせておきましょう。

    「我慢(がまん)」とは、不平不満の心を抱えたまま、それを表に出さずに耐え忍ぶことです。 心の底では「嫌だ」「辛い」「理不尽だ」と思っています。そのネガティブな感情を、理性や義務感で無理やり押さえつけている状態です。

    例えば、上司から一方的に叱責されたとします。 「自分は悪くないのに…」と思いながらも、「言い返したら面倒だ」と口をつぐむ。これが我慢です。その場は収まるかもしれませんが、心には「上司への不信感」や「自己嫌悪」といった”心のほこり”が溜まっていきます。このほこりが積もり積もると、やがて心の視界を曇らせ、何事もネガティブに捉えるようになってしまいます。

    一方、「たんのう」とは、目の前に起きた出来事を、すべて「親神様(おやがみさま)の親心(おやごころ)」の表れとして受け止め、心を定め、満足することを指します。

    「満足する」と言われても、辛い出来事の最中に「満足だ」なんて思えるわけがない、と感じるのが普通でしょう。 ここで言う「たんのう」は、諦め(あきらめ)や開き直りとは違います。

    天理教では、私たちの身体は親神様からの「かりもの」であり、日々の出来事すべては、私たち人間を「陽気ぐらし(ようきぐらし)」という喜びの世界へ導くための、親神様の「親心」の表れであると教えられます。

    病気や怪我、人間関係のトラブル、仕事の失敗といった、一見ネガティブに見える出来事。それらは、私たちを苦しめるために起きているのではありません。 それは、私たちの心の使い方や考え方の癖(ほこり)を払い、より成人した心へと成長させてくれるための「手引き」であり、「ふし(節)」なのです。

    竹が「節」があるからこそ強くしなやかに伸びるように、人生にも「節」が必要です。その節を「嫌なこと」として我慢で乗り切るのか、それとも「成長のチャンス」として受け止めるのか。 その受け止め方の転換こそが、「たんのう」への入り口です。

    辛い出来事の中に「親心」を見いだす

    では、具体的にどうすれば「たんのう」できるのでしょうか。 それは、「なぜ?」という不満の問いを、「何を?」という探求の問いに変えることから始まります。

    先ほどの「上司から理不尽に叱責された」例で考えてみましょう。

    【我慢の心】なぜ自分がこんな目に?」「なぜあの人はわかってくれないんだ?」 (ベクトルが他者や環境に向き、不満が募る)

    【たんのうの心】 「この出来事を通して、親神様は何を気づかせようとしているのだろう?」 (ベクトルが自分自身の心に向き、内省が始まる)

    このように問いを変えると、見え方が変わってきます。

    「もしかしたら、最近の自分は少し傲慢になっていて、人の意見を聞く耳を持っていなかったかもしれない」 「この悔しさをバネにして、次は誰も文句の言えない完璧な仕事をしよう、と発奮させてくれているのかもしれない」 「あるいは、他人の痛みに鈍感になっていた自分に、理不尽に責められる辛さを教えてくれているのかもしれない」

    もちろん、すぐにこんな風に思える人はいません。腹も立ちますし、落ち込みもします。 しかし、「たんのう」とは、そのネガティブな感情を否定することではありません。 一度その感情をしっかり受け止めた上で、「それでも、この出来事の中にも、私を成長させようとする『親心』が隠されているはずだ」と信じ、**心の向きを切り替える(心を転換させる)**努力をすることです。

    この「心の転換」こそが、「たんのう」の核となるプロセスです。

    「たんのう」は「心の定まった満足」

    人間が病気や災難などに出会うことは、皆それぞれの心の使い方を知らせたい親神様の親心からなのです。

    親神様は、私たちを罰したり、試したりするために困難を与えるのではありません。 ただただ、私たちに「陽気ぐらし」という、心からの喜びを味わってほしい。その一心で、時に私たちの心に「ほこり」が溜まっていることを、様々な出来事(ふし)を通して知らせてくださるのです。

    その「ふし」に込められた親心に気づき、「そうだったのか。この出来事は、自分のこの心の癖を直すために起きてくれたんだ。ありがたいなあ」と、心から納得し、満足できた時、心は「我慢」の圧迫から解放されます。

    不満や怒りが消え、代わりに「感謝」や「勇み心(いさみごころ)」が湧き上がってきます。 上司への怒りは、「気づかせてくれた」という(すぐには無理でも)一種の感謝に変わるかもしれません。 何より、「この経験を糧に、もっと成長しよう」という前向きなエネルギーが生まれます。

    これが、「たんのう」がもたらす「満たされた心」の状態です。 辛い出来事が解決したから喜ぶのではありません。 辛い出来事の真っ只中で、その中に込められた親心を見いだすことで、心を喜びに転換させるのです。

    雨もご守護、ありがたい

    例えば、楽しみにしていたお出かけの日に雨が降ると、私たちはつい「あいにくの雨だ」「ついてないな」と思ってしまいがちですね。心が沈んでしまうこともあるかもしれません。 しかし、その雨も、親神様の大切なご守護の一つなのです。

    雨が降るからこそ、大地はうるおい、田畑の作物は育ち、私たちは飲む水に困らず、生かされています。これは、水気上げ下げをご守護くださる「くもよみのみこと」様のありがたいお働きです。 「濡れるから嫌だ」と思う心(ほこり)を、「今日も私たちを生かすために、恵みの雨を降らせてくださり、ありがとうございます」と感謝の心に切り替える。

    このように、日常の一つひとつの出来事に親心を見いだし、心を定めて喜んでいくこと。それもまた、尊いたんのうの実践です。

    日常で実践する「たんのう」

    「たんのう」は、一度できたら終わり、というものではありません。 私たちの心は移ろいやすいもの。放っておけば、すぐに不平不満や心配事といった「ほこり」が溜まってしまいます。

    だからこそ、「たんのう」は日々の実践、心の筋トレのようなものです。

    電車が遅延した時。「ついてないな」と舌打ちして(我慢して)待つか、「おかげで本を読む時間ができたな」と心を切り替えるか。 風邪をひいた時。「大事な時期なのに」と自分を責めるか、「身体を休めるよう、親神様が時間をくれたんだな」と感謝して休むか。

    小さなことからで構いません。 日常の「ちょっと嫌だな」と思う瞬間に、立ち止まって心のチャンネルを切り替える練習をしてみる。

    「たんのう」とは、物事を無理やりポジティブに解釈する「ポジティブ・シンキング」とは少し違います。 それは、どんな出来事も「すべては親心」という絶対的な土台の上で受け止め直し、心を「陽気ぐらし」の方向へと定め直す、心の技術であり、信仰のかなめです。

    おわりに

    現代社会は、私たちに多くの「我慢」を強います。しかし、我慢を重ねた先に、本当の心の安らぎや「陽気ぐらし」はありません。

    辛いこと、苦しいこと。そんな「ふし」に出会った時こそ、我慢で心を固くするのではなく、「たんのう」で心を柔らかく解き放ってみませんか。

    「この出来事は、自分をどんな喜びへ導こうとしているんだろう?」

    そう問いかける時、あなたの心は不満から解放され、どんな状況下でも喜びを見いだせる、強くしなやかな「満たされた心」へと変わっていくはずです。 それこそが、「たんのう」という、私たちが目指す究極の心のあり方なのです。